麻田剛立のこと

 

西田 博

 

麻田剛立の名を知ったのはわたしが中学3.4年の頃である。剛立は江戸時代の寛政改暦に尽くした大坂出身の高橋至時や間重富を育てた師であり、またドイツのケプラーが発見した惑星運動の3法則のうち、第3法則を独自に研究して知っていたということで、偉い日本人が居たものだと畏敬していた。後年幼年時代によく遊び場にしていた谷町、夕陽丘町辺りを懐かしさの余り歩いていて、口縄坂の上にある浄春寺の境内に、剛立の墓のあるのを知った。この寺の境外地に夕陽丘予備校の元の校舎が昭和31年頃小さく建っていた。今春訪れたところ、山門脇に麻田剛立墓所と記した石柱が大坂市によって建てられ、墓石もー部御影石に変り、昔は和泉石に刻まれていた剛立の墓碑も、墓誌も半ば欠けて読みづらかったのが、昭和42年に縁者、有志の手で改修されたようだった。

麻田剛立はもと豊後杵築藩の儒者綾部絅斎の四男として享保19年(1734)に生まれ、名は妥彰正庵と号し、幼時より勉学家で、天文・暦学を独学で修め、傍ら医学もよくし、数学は宅間流を学んだといわれる。明和元年〜8年(1764〜1771)の間、杵築藩の侍医に推され、末席であったが、一説によると藩主の瀕死の急病を自ら工夫した薬を用いて救い、そのため却って先輩の嫉視を買い、自ら脱藩、はじめ江戸に行き、ついで大坂に来た。明和8年(1771)38歳の時である。氏も改め麻田剛立と称し、本町4丁目に居を構え、医術で生計を立てる傍ら、天文・星暦を究め、私塾「先事館」を開き、あまねく諸書を渉猟し、新来の学説をうかがい.各種の観測器機をつくり、実測に重きをおき、西洋暦学に基づいてー家をなし、多数の優秀な弟子を育て、麻田流天学の名を天下に博した。   寛政改暦に功のあった高橋至時、間重富はじめ西村太仲、坂正永、足立信頭らの門人を世に出している。異色の人、町人学者の山片蟠桃もそのー人で、蟠桃は著書「夢の代」等で師の説を拡充し発表している。

当時幕府は世に通用していた宝暦甲戌暦が改暦から40年になり、暦本と天歩と合わず、日食予報もずれ、官暦の疎を認めていた。天明8年(1788)オランダ人から永続暦(太陽暦本)を上ったので、その和解と暦術書を天文方に下し、寛政4年(1792)天文方山路徳風に命じー暦を作らせた。山路は翌年試暦2冊を成し、寛政7年(1795)幕府に改暦の議が起こった。既に西洋暦学で一家をなす麻田剛立の名声の高いのを聞き、幕府は麻田を召そうとしたが、61歳の高齢の故をもって固辞し、門下生の高橋至時を挙げて天文方とし、間重富をして助けしめた。高橋は大坂定番同心であったが江戸に下り、幕府天文方となり、山路徳風、吉田靱負らと京都土御門泰栄の下に至り、三条朱雀通に天文台を築き測量に従事し、間は奥村群太夫と共に浅草暦局で月食観測に従った。

高橋、間らは古今の諸暦の精粗を考え、清の暦象考成に基づいて暦法新書8巻をつくり、陰陽頭安部泰栄に進め、泰栄これを上奏、寛政9年(1797)11月18日改暦宣下の旨仰せ出でられ、名づけて寛政戊午暦という。寛政10年(1798)から45年間この暦法に依る。この後の改暦は天保壬寅暦で天保13年(1942)から明治5年の太陽暦採用まで30年間続く。

寛政暦は高橋・間の撰で、清の「後の時憲書」に清都と京都との里差を加算し.かつ麻田剛立の歳周消長法を用い、間接に西洋の暦法(カツシニなどの)を学びとったものである。享和3年(1803)欧州最新の説を網羅したフランス人ラランドの著書が間の熱心な世話で高橋の手に入り、暦学に関する精密な知識は高橋や間は勿論、高橋の子の景保や景佑などによって益々開発され、民周の暦学者で能くこれに対抗する者はなかった。景佑は渋川家を嗣ぎ、天保改暦に力を尽くした。景保は幕府天文方書物奉行で、伊能忠敬の測量を監督し、日本地図を完成させたが、後に洋書と交換に日本地図を与えたという有名なシーボルト事件で罪に問われ、文政12年(1829)獄死した。

 さて剛立は医学の分野でも動物や人体を解剖し卓見があったことを友人の中井履軒、三浦梅園がその著書で紹介している。地動説き信じ、惑星の楕円軌道説も祖述している。剛立の業績は殆ど独学の苦辛が実を結んだものであるが、独創的な学究で、当時の外来輸入の知識より更にー歩を進めたものである。ドイツのケプラー(1571〜1630)は師のチコ・ブラーへの長年に亘る火星の観測記録から苦心の末、惑星運動の三法則を地動説の立場から打ちたてた(1606〜1619)。これがニュートンの万有引力の法則の発見(1687)につながっていく。惑星運動の第3法則は、「各惑星の太陽からの平均距離の3乗と公転周期の2乗の比は惑星によらずー定である」というもので、麻田剛立はこの法則が成文としてまだ日本に伝来せぬ前に、この関係式を推知していたという。高橋至時が享和2年(1802)その著書「新修五星法図説」に麻田翁の創法として明記し、高橋はこの法則に従って諸惑星の太陽からの距離を計算し、これをヨハン・リリワス及びベンジャミン・マルチンなどの著書に見える数値と比較し、よくー致するのを見て、「彼の国亦是の自乗立方の法に依るものに似たり」と記し、更に享和3年(1803)高橋が始めてラランド暦書を入手し、第3法則の条を読み、「此篇は五星のー周自乗の比例と本天半径再自秦の比例と相同じきを論載す、これ曽て麻田剛立翁の考ふる所の術にして暗に。此篇の意と相符す、奇といふべし。」との感想をその著ラランド暦書管見中に記している。日本人が単に模倣的才能だけでなく.創造力を多分にもっていたことを如実に物語っている。しかしこの麻田のケプラーの第3法則の独立発見については、一部学者の周で疑問視する人も居るようである。

このような天文、暦学.医学等の分野で大きな業績を遺した剛立は寛政11年(1799)5月22日66歳で大坂で没し、夕陽丘浄春寺に葬られた。家は甥の直が嗣だが文政9年(1826)死ぬに及び跡は絶えた。幕府は寛政改暦の陰の功労者として剛立に日銀5枚を贈っている。明治になって従四位を贈られた。

 

                                              平成4年7月
              戻る