「加藤弘之と蕃書調所」

 

西田 博

 

徳川期鎖国の中で新井白石の頃、西洋学術への関心が深まり、将軍吉宗が実学奨励の線から1720年(享保5)洋書輸入を緩和、蘭学研究が進んだ。西洋の自然科学の優位を認め、封建制を補強し、幕府に益のある技術の学を盛んにするため洋学をとり入れることにした。杉田玄白・前野良沢・中川淳庵による「解体新書」訳述(1774・安永3)は語学の発達を促し、蘭学発展に大きく貢献した。寛政期には医・本草・天文・地理学などが発達した。蘭学研究ができたのは為政者につながるー部の人であり、また儒学的な思考から脱することができなかった。幕府は1811年(文化8)蕃書和解御用を設け、洋書の調査と統制をし、化政・天保時代にシーボルト事件(1828)、蛮社の獄(1839)で洋学者の弾圧事件を生んだ。

安政年間幕府天文方では暦作成から天文観測のため西洋天文学を移入し、さらに地理学の必要に及んで、洋学の捜査研究、翻訳事業を行なった。嘉永・安政年間外交事務が頻繁となり、幕吏の外国語教育のため1855年(安政2)洋学所を設けた。西洋軍制・軍事科学などの書物翻訳の特別機関の設置が必要となり、勝安芳・川路聖謨・箕作阮甫らが設立委員となり、調所の創設となったが、洋の字が忌まれ、蕃書長所と称した(1856・安政3)。古賀謹一郎が頭取(1868・明治元年頭取の上に総奉行をおく)、教官は教授職・同並、教授手伝・同並などに分かれ、箕作阮甫、杉浦成郷、西周、津田真道、加籐弘之、神田孝平、柳河春三ら当代一流の洋学者が各藩より徴集された。はじめ生徒は幕臣に限られたが、のちには各藩の士も入れた。外国語は蘭語のみであったが、1862年(文久2)5月幕制改革で洋書調所となり、英・仏・独語を新設、化学、数学、西洋画などの技術教育も始まり機構を拡げた。'63年(又久3)9月開成所と改め、各国語学のほか地理、窮理、物産、機械などの諸料をおき(開成所規則)、語学、 技術教育を行なった。しかし文久以後は新進教官の西、津田、加籐、神田らにより西洋哲学、 政治学、 経済学などの学習が始まり、62年(文久2)西、津田がオランダに留学、哲学、 法学、経済学を修めた。箕作は西洋史を講じた。かくして調所を中心として人文・社会科学を囁取し、西洋学を全面に受容するに至ったが、調所には翻訳の任務があり、教官は教授より外交文書の翻訳に忙しく、幕府直属の翻訳局でもあった。教科書、辞書編纂のほか、バタピア新聞などのニュースの翻訳を出版した。同時に禁教政策による洋書統制もした。幕府が倒れ、開成所は明治新政府に接収され官立の開成学校と改称(1868・明治元年)し、翌年1月より開校、大学南校、本校、大学東校となり('69・明治2・12月)、74年(明治7)東京既成学校と称し、77年(明治10年)東京医学校と合併して東京大学となる(法・医・文・理科)。1919年(大正8)分科制を学部制に改め、法・文・経・理・エ・医・農学部として、のちの東京帝国大学へと発展していった。

加籐弘蔵(のちの弘之)は1836年(天保7)但馬出石藩の兵学師範の家に生まれ、17歳で江戸に出て洋学を坪井塾(塾頭坪井信道、高弟に緒方洪庵)に学び、貧しく綿なしの敷布団で眠り、着換えもなく、食にも困る苦学生であった。鰻を食べたくても金が無いのでわざと鰻屋に飛び込んで、友人を待っていると嘘をついて腰を下ろし、鰻の焼ける香を胸一杯吸って早々と店を立ち去ると、弘之自伝に記している。そのすぐれた才能を認められ、蕃書調所の教授手伝となり(俸禄は15人扶持、年,10両)、市川斎宮(兼恭。広島藩医の子、1818・又政元〜1899・明治32)教授と独語辞書の編纂に携わり、頭角を現わし、'62年(元治元)8月11日幕府直臣に抜擢され、開成所教授職並となる。68年(明治元)1月25日付で大目付・勘定頭に転じたが、幕府の崩壊後いち早く明治新政府に出仕、同年10月29日政体律令取調御用掛に任ぜられ、名を弘之と改め、「立憲政体畧」を谷山楼より出版した。

加藤はオランダ語からドイツ語の学習を通じて語学力を鍛え、政治学に興味をもち、幕末から維新にかけて、多くの著作を出版した。「隣草」‘62(文久2)、「西洋各国盛衰強弱一覧表」'65(慶応元)、「交易問答」・「立憲政体畧」'68(明治元)、「真政大意」70(明治3)、「文部省版フルンチュリ国法汎論」(翻訳)72(明治5)、「ビーデルマン西洋立憲政体起立史」(翻訳) 75-'76(明治8-9)、「国体新論」74(明治7)など。近代立憲君主制度、政治思想を日本に紹介し、自己の理論確立につとめた。秀でた才能、語学力を駆使し出版により自己主張を明確にし、幕臣から明治政府のエリート官僚として、会計権判事、学校権判事、大学大丞、外務大丞、さらに天皇侍講もつとめ、77年(明治10)2月1日開成学校綜理、同4月13日東京大学法学・理学・文学部綜理、81(明治14)7月6日東京大学綜理となる。その学識は政治を中心に哲学、法律・生物学などにわたり広く深く、はじめは天賦人権論をとっていたが、77年(明治10)ごろから思想転換し、自由民権論に反対して、以前の天賦人権論関係の著作を絶版とし、'82年(明治15)「人権新論」を出版、進化論を唱え生物学的唯物論の立場から国家有機体説をとり、天皇機関説を否認した。

86年(明治19)元老院議員、'90年(明治23)帝国大学総長となり日本の大学数育の基礎を確立、同年貴族院開設に当たり勅選議員となり、以来同院で学制改革、教科書問題等に尽力したほか、各種の学会を指導した。・93年(明治26)3月30日帝国大学総長を辞任、195年(明治28)7月23日宮中顧問官となり、1900年(明治33)5月9日男爵を授けられ、1904年(明治37)帝国学士院院長をつとめた。

道徳をも生存競争の産物として利己心を基本と考え、宗教を認めずキリスト教を攻撃し、1893年(明治26)「強者の権利の競争」、1899年(明治32)「道徳法律進化の理」、1909年(明治42)「基督教徒窮す」、1912年(明治45)「自然と倫理」を出版、文学博士・法学博士として多くの論文・著述があり、わが国へのドイツ学の導入者、思想家として活躍し注目された。

1916年(大正5)2月9日81畿で薨じた。正二位に敍し旭日桐花大綬章を授かった。墓は東京豊島区雑司ヶ谷霊園にあり、長男照麿のものした墓誌がある。

加籐照麿(1863・文久3〜1925・大正14)は東大医学部中退、ドイツ留学、ベルリン大学医学部卒業、医学博士で昭和天皇の保育係で侍医もつとめた。照麿の6男の郁郎(1903・明治36〜1961・昭和36)は古川武太郎の養子となり、大正末より昭和初期に活躍した俳優古川緑波である。

加籐家の墓の隣りに市川斎宮をはじめ市川一族の眠る市川家の墓が並んでいる。加籐弘之は審書調所で指導をうけ、ともにドイツ語を研究した市川斎宮(兼恭)の長男文吉(兼秀1847・弘化4〜1927・昭和2)に触れておくと、開成所仏学稽古人世話心得となり、1865年(亀広元)幕府の遣露留学生に選ばれ、ペテルスベルグで勉学、 他の留学生が帰国した後もひとり残り、来日したことのあるプ-チャチン提督の家にひきとられ、提督と共に世界を周航した作家ゴンチャロフほか3人の教師からロシヤ語、歴史、数学などを学び、1873年(明治6)9月帰国、東京外国語学校の魯語料の教師となった。翌年樺太千島交換条約締結のため、榎本武揚に随行、I76年(明治9)外務省二等書記として榎本駐露公使とともに三たびロシヤに渡った。78年(明治11)榎本のシベリヤ横断 に随行して帰国し東京外語教員をつとめた。二葉亭四迷も教え子のひとりである。86年(明治19) 黒田清隆のシベリヤ経由欧米巡歴に通訳として随行などした。

 平成3年春、日本医史学会会長清原宏医博(新潟大学名誉教授)が、高野輿巳医博(俳号素十、 新潟大学名誉教授、元奈良県立医科大学学長)の遺した弔句をめぐり、私の義父須賀田平吉との関係を調べるうちに、須賀田家と高野・加藤・市川家が縁つづきであることが判明し、内容を群しく 蒲原先生が俳誌「雪」に、平成3年の6、7、9、10、11月号の5回にわたり「一弔句の背景」と題して連載された。以上のー文はこれをもとに、平凡社刊世界百科事典などを参考に引用して書いたものである。                              1997年(平成9)7月

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