「“たかつの宮"
あれこれ」
西 田 博
「高津の宮の昔より よよの栄えを重ねきて 民のかまどに立つ煙 にぎはひまさる大阪市」
これは「大坂市歌」のー番である。大坂市が大正10年(1921)に庁舎の新築記念に公募したもので、香川県の三豊中学校長堀沢周安氏の詞に、東京音楽学校助教授中田章氏が作曲した。
「高津の宮」の位置をめぐっては、今も尚明らかではないそうだが、現在「高津宮(高津神社)」は中央区高津1丁目1番に、「東高津宮(元高津宮)」は天王寺東高津4番にある。高津の地名は現在も谷町9丁目の少し西から、日本橋1丁目の少し手前までの辺りに残っている。高津の名を冠した「高津尋常小学校」の跡地は現在国立文楽劇場になって、今の高津小学校は下寺町筋(松屋町筋)に移っている。東高津の地名は、上本町6丁目交叉点の東北、府立教育会館や東高津宮を含めた地域に存在する。
「高津宮祉」の碑が府立高津高校の正門を入ったすぐ左の庭園にある。元は正門の外すぐ北にあり垣をめぐらし、樹木に囲まれていたが、昭和30年代の道路拡張の際、高校の敷地内に移された。碑の題字は明治32年(1899)大元帥彰仁親王とある。旧制府立高津中学技の校名もこれに由来するが、学校の所在地は昔から、天王寺区餌差町であって、高津ではない。
高津坂(表門坂)から高津宮の石鳥居をくぐり参道を北に行くと、すぐ「梅之橋」がある。今は水が
涸れているが昔は小さなせせらぎになっていて、右手に「梅の家」という料亭があった。付近は梅林で「梅の井」という泉もあった。水都大阪には「バシ」はたくさんあるが、「ハシ」はこの「梅の橋」と住吉大社の「反橋(太鼓橋)」だけだとよく言われるが、「鶴橋」・「亀橋」もあったらしい。さて参道の石段を上ると社殿に至る。この高津宮は仁徳天皇を主祭神とし、仲哀・応神・履中天皇、神功・葦姫皇后を祀る。社殿では仁徳天皇の徳を慕い、平安期初め清和天皇の勅命により貞観8年(866)現中央区馬場町付近あるいは大阪城付近にあった仁徳天皇難波高津宮旧跡の地に祭祀され、その後東高津の地を経て約700年後、正親町天皇の天正11年(1583)、「比売許曽神社」境内の現在地に遷座したとぃぅ。明治5年(1972)府社となる。境内は上町台地の西の断崖の上にあり、風通しもよく、絵馬堂(俗に舞台)からは北から百に六甲の山なみや須磨浦辺りまで眺望できたという。戦前から戦後の昭和20年代までは、大阪には余り大きな高層の建物は少広く、阪急、大丸、そごう、高島屋、松坂屋のビルなどのほかは目の届く限り黒い薨の波が寄せていた。「舞台」には仁徳帝の「高き屋にのぼりて見れば畑立つ 民のかまどは賑ひにけり」の御歌の額が掲げられている。先の大阪市歌のー節もこれに因っている。現在の社殿・舞台・社務所もすべて昭和20年(1945)
3月の大空襲で焼失したものを、昭和36年(1961)復旧したものであるが、社殿左(西側)にある海鼠塀の御輿庫と、その左の石鳥居は戦火から免れ、一龍斎芳瀧(1841〜1899)が安政年間に描いた「浪花百景」
の中の錦絵「高津」の様子が今もそのままに残っている。
この石鳥居から急な石段を北に下り、少し西に行くと有名な「高津の黒焼屋」
があった。元祖と本家の二軒が並び、表の陳列には猿の頭やとぐろを巻いた蝮、蝙蝠、ゐもり、穿山甲などの黒焼が一杯並べてあった。「こんなもの誰が何のために買うのか」と子供心にも不思議であった。この店も昭和40年代か昭和50年代の初めの頃には廃業して無くなった。舞台のすぐ左からも下りの石段があり、途中で右(北)と左(南)に別れていて、石の玉垣に「住友吉左衛門」や「中村鴈治郎」はじめ大商人や信心深い篤志家の名が残る。
舞台の左(南)に茶店があり、また境内東側にも茶店があって甘酒や団子を出していた。社殿の右(東)に摂社「高倉稲荷神社」、「安井稲荷神社」、「比売許曽神社」が並んでいる。平成10年3月29日午後、松嶋屋15代片岡仁左衛門が大反松竹座での襲名披露歌舞伎公演を前にして、この「高倉稲荷」に参拝し、東横堀川から道頓堀川まで船乗り込みをして人気を湧かせた。「船乗り込み」は江戸や京都から歌舞伎俳優が大阪の芝居小屋に出演する祭に行なわれた儀式で、大阪独特のものであり、大正13年(1914)を最後に途絶えていたのを、現「関西・歌舞伎を愛する会」が歌舞伎公演の前人気を煽る意味で、昭和54年(1979)に55年ぶりに復活させたもので、コースは土佐堀川の淀屋橋から道頓堀川の戎橋まで、とりどりの幟のはためく船に俳優が乗り込み、賑やかな囃子が鳴り響く中、川岸や橋の上のファンに手をふって挨拶をする華やかな見せ物であり、今年6月28日には人気の尾上菊五郎・市川團十郎丈らが乗り込んだ。
「東高津宮(元高津宮)」は昔から「仁徳天皇社」と号し、また「平野神社」と称していた。「東高津宮」というのは明治以降で、もとはここを距る正南3丁の地(近畿日本鉄道の線路の南側、近鉄本社ビル辺りの石ケ辻町)にあったが、都市の発展、交通の発達により、昭和7年(1932)現在地に遷宮。祭神は仁徳天皇・磐之姫命である。摂社に「白豊稲荷」と王仁博士を祀る「王仁神社」があり、日本文化の始祖、学問・学芸の神として崇められている。付近が渡来人と関わりの深いことが窺える。
「高津宮跡」を味原町から餌差町付近に求める説には、江戸時代の難波宮跡の研究から、鶴橋の東、天王寺区小橋3-8にある式内「比売許曽神社」
の存在と深い関わりがあるという。この社は下照比売命を主祭神とし、仁徳・用明天皇をお祀りする。天明8年(1788)寂閑雲観という人が、「この地から記紀の比売許曽神社がここであるという縁起、
またここが高津宮跡であるという碑文等が出てきた。その他記紀に記されている神話伝説がこの神社周辺にある」という説を唱えた。古代難波の都のーつ「味原宮」を小橋村の西側、上町台地の東麓にあった「味原」という地名と結びつけ、記紀の「大小橋命」の誕生の地もこことした。
一方鶴橋の西、天王寺区小橋3にある「産湯稲荷神社」は「式内比売許曽神社御旅所」とあり、ここに「産湯の井」がある。社記によると「大小橋命」は天児屋根命の13世の後胤で政務天皇の御代に、この味原郷に誕生、ここの玉井を及んで産湯に用いたことから、この地を「産湯」という。ここはさきの「比売許曽神社」の旧社地で、隣接してあった「味原池」は、比売許曽神社の祭神下照比売命が天の磐船に乗って天降られた霊地である。江戸時代から付近一帯が桃畑や桑畑であって今亨も桃山や桃谷の名を止めている。池は大正8年(1919)に埋められたという。
明治32年(1899)大阪市が仁徳天皇1500年祭を挙行するに当たり、高津宮跡の位置を決めるために民間に諮問した際、前記の説を採り、「高津宮跡の碑を、東高津北之町(現餌差町)の地に建て、それが今高津商校内に残ることになった。以上は府教育委員会の大谷治孝氏の研究によるものからー部を引用した。旧府立高津中字技は府立第11中学校として、大正7年(1918)北野中字技を借りて開校、入学式を挙行。北区茶屋町の私立心華小学校の校舎を仮校舎として授業開始。翌8年(1919)
東高津北之町の現在地に校舎を建て、名も高津中学校と称した。辺りには人家も少く、真田山陸軍墓地や騎兵第4連隊の兵舎や馬場があり、畑や、谷になった所は灌漑用水になった味原池が名残りを止めていたという。「浪速百景」の錦絵「産湯味原池」
の桃の名所らしい風景は今はすでにない。
こうして高津の宮は、高津宮・東高津宮・比売許曽神社・産湯稲荷神社と深い関係でつながっているが、高津の宮の位置は、中央区の法円坂遺跡における5世紀の大型倉庫群の発見などからすると、やはり大阪城付近一帯とする説が最も有力といえよう。
高津神社(高津宮)は地元の人たちから「高津さん」と親しまれ、
春の花見や夏の夕涼み、眺望の良さから芝居や落語の舞台にもなっている。上方落語のいくつかを紹介しよう。
【 1 】 「高倉狐」は林家染丸さんが語っていた。高津神社の高倉稲荷神社を舞台にしているが、東京 では「王子の狐」と題して8代目春風亭柳枝さんのを聞いたが、王子稲荷を舞台にしていて、内容は
同じで、人が狐を騙した話。ある男が高倉稲荷の裏手を通りかかると、丁度狐がきれいな年頃の娘に化けているところ。自分が化かされる前にこちらが狐をたぶらかしてやれと、さも以前から娘の知り合いであったように、親しげに声をかけてうまく料理屋に誘い込み、酒をすすめて酔わせ、眠っている間に、自分はたっぷり飲み食いし、手土産まで造らせて「勘定はあの娘にもらってくれ。」と言って先に帰ってしまう。娘が何特までも起きて来ないので、女中が娘を起こし「勘定を。」と言うと、事情を知った娘は驚きの余り尻尾を出し、耳を立てて正体を現わしたので、店の若者に奇ってたかって
ぶたれ、這う這うの体で狐穴に逃げ帰った。件の男は自慢げに話していると、一人から「狐を逆に騙すと、祟りでお稲荷さんの罰が当たる。」と言われ、慌てて翌日菓子折をもって高倉稲荷にやってきて、狐の居そうな穴を探していると、可愛い小狐が居た。「昨日はお母さんにすまぬことをしてしもうた。これはお詫びの印。よう謝っておいてや。」小狐は折を衛えて昨日の傷でぐったりと寝ている母狐の許に持っていき、「今人間がこんなものをくれた。」と折を開けて、「おいしそうなぼた餅や。」
母狐は「これ、 そんなもの食べたらあかん。ひょとして馬の糞かも知れん。」
【 2 】 「稲荷車」狐はお稲荷さんのお使いということになっている。・・・しかし狸がお使いというお稲荷さんもある。北区の「堀川戎神社」の境内にある「地車稲荷神社」お使いは狸で、ここでは狸が地車を曳いている絵馬が売られている.・・人間国宝桂米朝師匠が昨年だったか「稲荷車」という落語をやっていた。大正時代の咄.高津の表門で客持ちをしていた人力車夫。宵から雨の降りそうな夜の9時すぎ、客一人現われないので仲間はー人去り、二人去り、この車夫がー人になった。今夜はこれまでと帰りかけた時、50過ぎの金縁眼鏡に茶の中折れ帽子、黒の二重廻しを着た身なりの良い紳士、「産湯楼までやってくれ。稲荷のそばや。」という。「あの辺は物騒や、仲間が狐に化かされてひどい目に合っているのでいやや。」と断ると、紳士は「30銭やるから行け」30銭と聞いて車夫は喜び、神士を車に乗せて駆け出す。途中でいろいろ車夫の身の上話を聞いて紳士は、「何事も辛抱が肝心。お前はなかなか正直者らしい。真面目に働いていれは良い運が巡ってくる。近々きっと良いことがあるぞ。お前の家は何処か。」車夫は「高津4番丁の高津橋北詰、大浦という米屋の前の路地で車夫の梅吉といえは分かります。」といっているうちに、産湯楼の灯が見えてきた。車夫は梶棒を下ろして「お客さん、ここから歩いて行っとくなはれ。これ以上はこわくてよう行きまへん。」客は「そうか、お前はこわがりやな。今儂がここでギョロリと目をむいて耳をピンと立てたらどうする。儂は産湯稲荷のお使いじゃ。今日は土佐稲荷の石宮へお使いに行っての帰りじゃ。産湯稲荷のお使いから、お前は30銭をとるつもりか。」「いやもう結構です。」と車夫。「儂の正体を見たら目が潰れるぞ。目をつぶって儂の立ち去るのをじっと待て。」と言い残して紳士は立ち去った。車夫は震えながら目をつぶっていたが、しはらくして目を開けると紳士の婆は影も形もない。恐くなって車夫は車を曳いて急いで家に帰り、嬶にこれこれと話すと、「騙されたんやがな、それは。気が良いにも程がある。」女房が車を片付けながち「ここにハンカチの忘れ物があるで。良い匂いがしている。お金やで。」亭主が包みをあけると1円札で15枚。「これはお稲荷様からの授かりものや。近々良いことがあるとさっきのお使いが言っておられた。有難や。近所の皆に良いことがあったと一緒にお祝いしよう。」と酒肴をとり寄せドンチャン騒ぎ。件の紳士、一寸悪戯が過ぎて「車夫にはかわいそうなことをしたな。明日にでも訪ねて車賃と菓子折でも持って行ってやろう。」ふと気がつくと金包みがない。「しまった。狐に化けたつもりで気を抜いた。幸い家を聞いているので今から返してもらいに行こう。」車夫の家を訪ねると大散財の様子にびっくり。「随分と派手に使いよったな。大分減ったな。」と言いながら車夫に「先程車に乗った者やが。」と言うと、車夫は「これは産湯のお使い様。先程は有難うございました。いただいたお金はああしてお供えしてこざいます。お蔭をいただいて皆とこうして喜こんで居ります。貴方様もどうぞお上り下さい。貴方様をお祀りさせていただくために祠でも何でも建てます。」と言うと紳士は「穴があったら這入りたい。」
【 3 】 「崇徳院」ある商家の若旦那作次郎が丁椎亀吉を連れて高津宮へお参りし、桧馬堂横の茶店で休んでいたところ、水もしたたる美しいお嬢さんが稽古の帰りに下女を供に来合わせ、茶を飲み終わって立ち去ったが茶袱紗を置き忘れた。若旦那が迫っかけてそれを手渡すと、娘は礼を言い、茶店で科紙と筆を借りて、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」と書いて若旦那に渡して立ち去った。若旦那は電気に打たれたようにボーとなり、忽ちー目惚れ。飯も何も咽喉を通らず寝ついてしまい、命が持たぬという状態。医者も手の施しようがなく心配していたが、何か思いつめていることがあるのではと医者に言われ、
母父が店に出入りの息子と功なり染みの熊五郎に、息子にわけを聞き、悩みを打ち明けさせた。親父はその経緯を知り、「あの歌は百人一首崇徳院のもの。あれに続く下の句は、「われても末えにあはむとぞ思ふ」で今は別々に暮らしていても、将来は一緒になろうという意味。それで息子はその娘に恋をしたのだ。熊さん、すぐその娘を探し出して来い。見つかったらお前の住んでいるあの長屋三軒をお前にやる。早よ探せ。」早速熊さんが相手の娘を探し始めるが、何処の誰とも分らず、ただ手掛りは「瀬をはやみ・・・」これを口にしながら毎日歩き廻り、人の寄りそうな風呂屋、床屋を尋ね廻る。ある日床屋にとびこんで来た男が「うちの本家のお嬢さんが、高津さんでー目見た若い美男のことが忘れられず床に臥せっている。毎日手分けして探しているが、手掛かりはお嬢さんがその男に渡した「瀬をはやみ・・・」の歌を書いた紙。もう大変だ」と言ってるのを聞きつけた熊さん「さてはお前とこの娘が…。探し求めて艱難辛苦。早ようちの店へ来い。」相手も「ではお前のところの若旦那か、うちへ来い。」と互いに引っ張り合い、もみ合っているうちに床屋の鏡をわってしまう。床屋の親父が、「鏡をわってどうしてくれる?」二人の男は「われても末に買はむとぞ思ふ」。笑福亭仁鶴さんがよくやっている咄であるが、東京では4代目三遊亭小円遊師匠が演じていたのを聞いたが、舞台は向ケ丘や湯島天神の見える向島辺りでの出合いということで、全く同じストーリーで、元は上方の噺らしい・。
【 4 】 「高津の富」江戸時代には寺社の発行する富札というのがあった。今でいう宝くじ。やはり高津神社を舞台にした噺を桂文枝・笑福亭松鶴師匠が高座にかけている。大川通りに宿屋が並んでいるところへ50過ぎた雪駄を履いて嵐呂敷包をーつ持った男がー軒の宿屋に泊めてくれと言う。「2万両の取り引きにやってきたのでしばらく泊めてもらいたい。儂は困川鳥取の在。
金は蔵に数え切れぬ位入っている。先月も盗賊が来たので欲しいだけ持って行けと言うたのに、夜明けまでに千両箱をたったの83しかよう持って行かなんだ。欲のない盗っ人や。こないだも漬物石が持ちにくいと女中が言うので、重しに千両箱を10ばかり出しておいてやったら、出入りの者がボチボチと持って帰りよって無くなってしもた。そんなに金が欲しいかな。」と大笑い。宿の亭主はびっくり。酒肴を運ばせ、大きな口を叩いている。亭主は「旦那さん、この富札を買って下さい。」「当たったら儂がお金をあげたら良いのかな。」「違いま。一番札やつたら千両、二番札やったら五百両、・・・・・呉れますのやが。」「何や金を呉れるのんかいな。もう金が増えるのはご免や。当たったら半分はあんたにあげるわ。」と言ってー分で亭主から富札を買ったが、懐中にはびたー文も無い素っからかん明日からどうしようかと思案しつつも、翌日はあてもなく町をぶらぶら。夕方高津神社へ来ると例の富札の突きは終り、大勢居た人も帰ってしまい閑散としていたが、当たり札の番号がはり出されているのを見て、どうせ当たるまいと懐中より無けなしのー分で買わされた富札を出して、その蕃号を見較べていたが、一番札の千両に当たっているので、仰天しわなわな震えて青い顔をして宿へ戻り、女将さんの「旦那さん、どうなさいました。」の声に返事もせず、あたふたと二階にかけ上がり、蒲団を頭からかぶってもぐり込んでしまう。一方宿の主人も、あの札が当たったら金を半分もらえると気になって高津の境内へやつて来、一番札千両に当たっているので、これもびっくり、震えながら帰って来て女房に「旦那はどこや。」「旦那はんは二階の部屋へ。」と聞いて亭主は慌てて駆け上がって部屋の襖をあけ、「旦那はん、寝ている場合やおまへんで、あの富が千両に当たっています。」と言うと蒲団から首を出した旦那が、「慌てんな。お前は下駄を履いたまま上って来たやないか。」言われた亭主、蒲団をめくると旦那も雪駄を履いたまま寝て居た。この噺は東京では「宿屋の富」と題して古今亭志ん朝さんらがやっていた。舞台は馬喰町の宿屋と湯島天神。これも元は上方噺のようである。
【 5 】 「ゐもりの黒焼」
高津神社の舞台から北へ下りてすぐ西に有名な高津の黒焼屋があった。この落語を桂米朝さんが演じているのを聞いたが、大阪の古い話のようだ。ゐもりの黒焼は有名な惚れ薬である。仕事も禄にせず、遊んでばかりで風采も何も面態のすぐれぬ「きい公」という抜けた男が、隣町の米屋の小町娘に片思い。言葉一つかけたこともないので、甚兵衛さんに「何ぞ良い薬はないやろか。」と相談。「ゐもりの黒焼が良い。安いのはあかん。「惚れぐすり 何が良いかとゐもりに聞けば 今は儂より佐渡が良い」金(かね)やがな。」きい公「金はようけもない。」「高津の黒焼屋で上等のゐもりの黒焼を買うて来い。」それを相手にふりかければ、きっとお前に惚れて来よる。」言われて黒焼を買い求め、米屋の前を行ったり来たり、店の者が「お嬢さん、おもろい顔をした奴がさっきからこっちを見てまっせ。一ぺん見てみなはれ。」娘が奥から出て顔を出したので、ここぞとパッとふりかけたが、急に風向きが変わって、黒焼の扮が娘にかからず店に積んであった米俵にかかってしまった。「あぁ」と声を出して米俵を見ると、コトコトゴトンと俵が起き上がって、きい公に向ってくる。驚いて走り出すと米俵が何処までも追いかけてくる。友達が「お前は何をしてんのんや。」と
きい公に尋ねると、「苦しい、飯米に追われている。」
「飯米に追われる。」というのは食うのに追われているということで、もう今はそんなことを言う人も殆んど居なくなってしまった。最近はとくにそういう古い言葉や風物も無くなり、古典落語も解説がないと解り難いところもある。
それにしても、私が幼少時を過ごした高津の町の思い出は尽きない。昭和10年頃までは私の工場の裏は宣伝会社で、映画(その頃は活動といった)の看板に役者の顔を描いたり、キャバレーの立て看板が所狭しと並べ置いてあった。たまに飲んで帰りそびれた会社の人が会社の事務室で寝ていると、夜中に誰も居ない筈の工場の機械が動いている音がする。「あれは狸や。」といって子供らをこわがらせたり松屋町筋が拡張される工事に伴って、私の家の工場が移ることになり、住居の方も一緒に中寺町辺りへ越した。この辺りで私の家は一際高い所にあり、窓からは高津神社の鳥居や社殿を見渡せ、六甲の山なみや、夜はキタ・ミナミの赤い灯や青い汀が見えた。南西の方角には「生玉神社の社」や「通天閣(戦前の)」がよく見えた。
高津小学校では、運動会や式の時は、「たかつの宮の昔より・・・」と大阪市歌を歌った。校歌は無くてこの市歌をよく歌った。7月の夏祭りは学校は昼までで、全校そろって高津神社へ参拝した。 夏休みには朝早くから境内でのラジオ体操や、蝉とりに夢中になったこと。祭りの夜はアセチレンガスの独特の匂いと夜店の風景が今も記憶に残っている。